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中国王朝 よみがえる伝説 悪女たちの真実 楊貴妃

2017年2月22日にNHKBSプレミアムで放送された「中国王朝 よみがえる伝説 悪女たちの真実 楊貴妃」のまとめと感想になります。


 
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楊貴妃の誕生

楊貴妃の名は玉環といい、蜀の国(現在の四川省)で下級役人の娘として育ちました。やがて玉環は成長すると、都 長安の近くの大都市で踊り子になります。その美貌はたちまち評判となり、皇帝 玄宗の妃 武恵妃の目に留まると、宮廷に入り、17才の若さで武恵妃の息子寿王の妃となりました。しかし息子の妃のあまりの美しさに惹かれた玄宗は息子から玉環を奪ってしまうのです。この時、玄宗は60才で玉環は26才。玉環は間もなく貴妃という称号を賜り、"楊貴妃"と呼ばれるようになりました。

 

 

妃の美貌に溺れる日々

当時の長安は100万人近くが住む世界最大の都市でした。シルクロードとの交易で経済は繁栄し、文化面でも絶頂期を遂げ李白杜甫などの詩人が活躍しました。

楊貴妃は躍りや歌が上手で頭の回転も早く、気配りも人並み優れていたと言われています。楊貴妃はこうした皇帝を楽しませる芸術の才能を持ちながらも、巧みな気配りで人を惹きつけることにも長けていたのです。すっかり愛欲に溺れた玄宗は次第に政治を疎かにするようになっていきました。

 

 

この世を謳歌する楊一族

楊貴妃玄宗の寵愛を得たことで彼女の一族も次々と取り立てられました。3人の姉は高い地位を与えられ、皇帝から豪華な屋敷を手に入れると、贅沢な暮らしを送るだけに留まらず、宮廷の人事にまで口出しするようになりました。さらに一族の男たちも宮廷内での要職を得ていき、その中でも楊貴妃の又従兄弟にあたる楊国忠は宰相にまでのぼりつめました。何とこの楊国忠、故郷では賭博に明け暮れてばかりの男でしたが、皇帝に取り立てられてからわずか7年で宰相になると、宮廷内を牛耳り出し、賄賂で私腹を肥やすようになります。

こうして権力を欲しいままにする楊一族。しかし、755年、大きな反乱が起こります。"安史の乱"です。楊一族を除けと兵をあげたのは武将 安禄山長安を陥落させると自ら皇帝を名乗り一時期唐を支配します。繁栄を極めていた都 長安はあっという間に荒れ果て、その光景を前に杜甫はあの有名な詩をうたいます。

国破れて山河在り
城春にして草木探し

都の荒廃を嘆く杜甫は反乱までの経緯を振り返り、原因は楊貴妃にあったと厳しい目を向けたのです。

 

 

破滅への幕開け

実は玄宗が幼い頃の宮廷は激しい混乱の中にありました。君臨していたのは中国史上唯一の女帝 則天武皇。彼女は息子の中宗から権力を奪い皇帝となっていました。彼女の死後、今度は中宗の妃 韋后が中宗を毒殺し権威を奪おうとします。これに対し玄宗のおば太平公主が韋后を殺害。女性たちが皇帝を蔑ろにし、権力争いを繰り広げた中、その混乱を父と共に収めたのが玄宗でした。

この事件をきっかけに女性を恐れた男性たちは「男子居外 女子居内」つまりは"男に外を任せ、女は内を守るべし"という儒教の考えを国に深く根づかせていくことになります。これが後に国を破滅する要素となり得るとは知らずに……。

 

 

安禄山楊国忠

楊貴妃玄宗の運命は安禄山楊国忠という二人の人物によって大きく変わりました。まずは安禄山の歩みから見ていきます。

 

安禄山

安禄山はもともと玄宗の宮廷につかえた軍人でしたが、その執事が唐書に"胡人(以下ソグド人)"と記されています。唐はシルクロードを通して東西の交易が栄えた時代でした。長安から西は遥かローマまで続くシルクロード。その中継点であるサマルカンドなど中央アジアで活躍したイラン系の民族がソグド人です。近年、西安では様々な遺跡からシルクロードにかかわる物が発掘されているそうです。こうしたことから、最近の研究ではシルクロードの交易を支配していたのはソグド人だったと言われています。

では安禄山が実力者となった理由は何か見ていきたいと思います。その背景には玄宗がとった異民族政策にありました。唐は建国以来、異民族の侵入に悩まされていました。それに対処するため玄宗が注目したのが国境をまもる軍司司令官"節度使"です。これに漢民族だけでなく、軍司に秀でた異民族も登用したのです。異民族の力で異民族を征す、その一人として北京の東 平盧の節度使となったのがこの安禄山でした。

以後、安禄山は宮廷の中で着々と実力をのばしていくことになります。そのきっかけとなったのは746年、楊貴妃が妃となった3年目の春、安禄山玄宗のもとを訪れたときのことでした。彼が楊貴妃の前に跪き挨拶をすると、当時挨拶はまず皇帝からするのがしきたりだったため玄宗はその非礼を強く咎めました。すると安禄山は「ソグド人のしきたりでは先に母に礼をすることになっています。私はそれに従ったのです。」と答えました。すると玄宗はソグド人流の最上級の礼をもてなしてくれたと安禄山をすっかり気に入ってしまいます。さらにこの時、玄宗安禄山による"楊貴妃の養子になりたい"という申し出を受け入れてしまいます。こうして安禄山楊貴妃の14才年上の子どもになることに成功しました。

この安禄山を主役の一人とする宮廷での権力争いが、やがて唐王朝を破滅へと導いていくことになります。

 

次に安禄山の争い相手となる楊貴妃の一族、楊国忠について見ていきます。

 

楊国忠

2015年、楊一族の故郷である蜀の国(現在の四川省)で新しい事実が明らかになりました。長安から蜀の国まで続く街道で巨大な唐中期の磨崖仏が発見されたのです。磨崖仏がつくられたということは、この通りが大きかったことを示します。街道の先にある蜀の国は絹や米、塩の産地でした。この道はかつて楊貴妃の好物だったライチを運ぶためのものだと考えられていましたが、それは目的の一つに過ぎず、本当は長安と蜀との物産や情報の流通に使おうとしていたことがわかりました。

蜀は楊一族の故郷でもあり、学のない楊国忠には自分を支える基盤が必要でした。その時支えとなったのが蜀の人脈です。蜀側も彼を通して地位を高めたいという共通認識でありました。金銭勘定が得意だったことで玄宗に徴用された楊国忠は蜀との交易を通して自らの経済基盤を強化していきました。そして政敵を次々と追い落とし安禄山に対抗したのです。

 

 

異民族が呼び起こしたもの

玄宗の時代の都には日本からの多くの遣唐使も訪れました。2004年、中国で亡くなった遣唐使墓誌が発見され、そこには日本人の井真成(いのまさなり)の名が綴られていました。

"彼の才能は天から授けられたものと称えられ、生まれながらに優れていた"

彼が亡くなった時、玄宗はその死を惜しんで特別な扱いで葬ったとされています。このように、彼の他にも様々な外国人が玄宗の宮廷では活躍していたことがわかっていますが、そこには地理的にも国際化せざるを得なかったことが見えてきます。しかし、玄宗の時代に国際化が進む一方でそれに抗う空気も広がっていました。

唐の時代の法律の注釈書には、交易についての法律の中で異民族のことを"化外人"と記してあります。化外人とは儒教の教えに従わない野蛮な人たちという意味の差別用語で、異民族に対する強い警戒心が伝わってきます。

異民族への寛容さと反発が同居する玄宗の宮廷。それは楊貴妃一族を描いた謎の絵からも窺えます。


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(画像はすべてWikipedia)

こちらは「虢国夫人遊春図」という楊貴妃の時代の風俗が描かれた貴重な風俗画です。ちょっと大きい画像が中国のサイトからしか見つからず用意できなかったのですが、先頭で馬を率いる男装した人物が楊貴妃の姉の虢国夫人と思われています。こうした服装は異民族のファッションで当時の流行でした。しかし、実はこの絵の女性は虢国夫人ではないという考えもあります。それについて説明してくださったのは奈良橿原考古学研究所所長の菅谷文則さん。菅谷さんはその理由として、虢国夫人が男装をしていたという資料がないことと、(これもまた分かりにくいのですが)身分の高い女性を示す馬のネックレスをした方の女性が虢国夫人ではないのかということをあげています。ここで大切なのは、虢国夫人は男装などしていないのではないかという新たな考えです。合わせて次の絵をご覧ください。


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「唐人宮楽図」という唐の時代の宮廷の女性たちを描いた絵で女性たちは、頬を赤く塗り、額には花鈿と呼ばれる模様を描いています。これらはインドなどシルクロードから伝わったメイクで、当時宮廷では西域のファッションやメイクが流行していました。ところがこの絵の虢国夫人はメイクの痕跡がなく素顔で、漢民族の伝統衣装を身につけています。ここから読みとれるのは、"なぜ漢民族の美しさを、異民族の美の基準に合わせなければならないのか"という民族としてのプライドです。おそらく虢国夫人はこうした異民族ファッションを好んでいなかったと推測できます。高位高官の夫人がそのような思想を持ったらどうなるでしょうか。それは社会である一定の力になったのではないかと言われています。

 

 

そして動き出す歴史…

楊国忠がさらなる権力のために取り除かねばならなかったのが、異民族であるソグド人の安禄山でした。安禄山は3つの節度使を兼ね15万の兵力を動員できる実力者になっていました。楊国忠安禄山を落とし入れようと玄宗に何度も告げ口を繰り返すようになります。

安禄山は必ずや反乱を起こします!」

これを知った安禄山玄宗に拝謁、異民族の身でありながら高い位を与えられたことに感謝すると共に楊国忠の妬みで窮地に追い込まれたと涙ながらに訴えました。安禄山の巧みな言葉に玄宗の信頼は揺るぎません。一方、楊国忠は財力で強力な派閥を作り宰相にのぼりつめていました。こうして二人の激しい争いは留まることを知らずに動き出していったのです。

 

 

動き出せない歴史

自らの一族を率いる楊国忠、自らの養子でもある安禄山。二人の対立の中で楊貴妃は宮廷でどのように行動したのでしょうか。当時は則天武皇のことがあり、女性が表に出ることが許されない時代、楊貴妃は政治の話を聞くことさえできない状態でした。自身の知らぬ場で何かが決定し、動いていく。もしこの時女性にも政治を行う権利があったのなら歴史は違う方向へ動いたかもしれません。

楊貴妃が宮廷に入ってから10年後、安禄山楊国忠の争いは決定的となります。玄宗は信頼する安禄山楊国忠と並ぶ宰相に取り立てようとしました。ところがこれに激しく反発した楊国忠玄宗に「文字も書けない安禄山を宰相にすると唐王朝は周辺の異民族から軽蔑されます!」と忠告します。これにより、今までは楊国忠の告げ口を聞き入れることのなかった玄宗ですが、この時ついに安禄山の昇進を見送ることにしたのです。

 

 

逆襲、そして崩壊へ

失意の中、任地に戻った安禄山は部下と共に兵をあげ反乱を起こしました。反乱軍の兵は15万。戦いになれた安禄山の軍は唐の軍を次々と破り、都 長安に攻め入ります。玄宗楊貴妃と一族を引き連れ楊一族の拠点蜀へと脱出しますが、その途中玄宗を守る兵たちの不満が吹き出します。まず反乱の原因は楊国忠にあると彼を殺害、さらに一族を次々と手にかけた後、ついには楊貴妃も殺すように玄宗に迫ります。

玄宗楊貴妃に罪はないと庇いますが兵の怒りは治まらず、結局楊貴妃の命を差し出します。

 

楊貴妃38才のことでした。

 

破竹の勢いを示した反乱軍でしたが、間もなく安禄山が内紛で殺されたことをきっかけで弱体化。やがて玄宗は勢いを取り戻した唐の軍と共に長安に戻ります。しかし都 長安がかつての繁栄を取り戻すことは2度とありませんでした。

 

 

唐帝国を傾けたとされる楊貴妃。その生涯は王朝が興亡を繰り返す歴史の中で君主の戒めとして語り継がれていくのでした。

 

 

感想

実はこの歴史の核となる部分は現在の世の中で起きていることと変わらない気がします。よく歴史は繰り返すなんて言いますが、異民族や宗教に対する問題なんてまさに同じですよね。告げ口外交みたいなやりとりまでありますし(笑)やはりこの問題は人類にとって永遠のテーマなんでしょうか。

悪女と呼ばれた楊貴妃も美貌を持ったあまりにこんな人生を歩まなければいけなかったのかなとも思います。楊貴妃は最後、玄宗に命を差し出された時「死んでも恨みません」という言葉を残したそうです。まるでいつかこの日が来ることを覚悟していたのでしょう…そして自身が歴史の渦の中で完全完璧なる悪者にされることも悟っていたでしょうね。

もとを辿れば権力争いに狂った者たちの破滅の繰り返しと言えますが、大国というものには、それだけ大きな問題に悩まされ、また役割も求められることで常に限界と戦わなければならない難しさがあるのだなと感じました。

 

また、中国ではよく歴史上人物の像にイタズラをすることもあるそうで、楊貴妃像もそんな経験があったとかいうニュースを以前目にしたことも思い出しました。美人はいつの世も大変ですね…。

しかしながらこの楊貴妃、実は政治には介入していなかったということもあり、良い人説なんかもあって今でも謎めいた魅力のある女性ですよね。美人一人の存在で目の前が見えなくなっちゃう玄宗さんも凄いけど、人って皇帝という立場でもそんなもんなんですかね?!私にはわからない不思議な世界です。

とにかく上に立つ人間の考え一つで、国の方向がこんなにも左右されるということが歴史のすべてですね。だからこそ国のために判断し、動ける人材を社会が生み、育てることが一番大切なんだと思いました。

 

以上でおわりになります。最後まで読んでいただきありがとうございました!