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悲劇のキリシタン弾圧 大人になった天正遣欧使節【英雄たちの選択】

2017年2月9日にNHKBSプレミアムで放送された「英雄たちの選択 悲劇のキリシタン弾圧 大人になった天正遣欧使節」のまとめと感想になります。

 

 

番組あらすじ

戦国時代にローマ教皇に謁見した、4人の栄光ある日本人少年、天正遣欧使節。帰国後、彼らは容赦なきキリシタン迫害の時代を懸命に生きた。受難の果て、知られざる結末は?

戦国時代、ローマ教皇に謁見しヨーロッパで熱狂的に歓迎された、4人の栄光ある日本人少年、天正遣欧使節。しかしそれは彼らの激動の人生の一部にすぎない。帰国後、日本人キリシタンのリーダーとして、大勢の信者を導く責任を背負いつつ、秀吉、家康ら権力者による苛烈な弾圧に向き合い続けたのだ。教団から去る者、海外に避難する者、最期まで残り続ける者、それぞれの厳しい選択から、ひたむきに生きた知られざる生涯に迫る。

 

引用元 NHK 英雄たちの選択 http://www4.nhk.or.jp/heroes/x/2017-02-09/10/8989/2473097/

 

 

天正遣欧使節の成り立ち

天文18年(1549)フランシスコ・ザビエルらが設立したイエズス会によって日本にキリスト教が伝わってから日本では大名~農民までその人気は爆発的に広まった。1581年にはキリシタンの数は15万人に達し、戦国時代は後に"キリシタンの世紀"と呼ばれるようにまでなった。

そこまで日本にキリシタンブームが起きた背景には戦国の世相が深く関係していると言われている。戦が絶えまなく続き、疫病が蔓延したこの時代、人々は生きる幸せを見出だせずにいた。そんな絶望の中、キリスト教が説いたある教えが戦国の人々の心を掴んだのだ。

 

来世に助かる道
「ドチリナ・キリシタン」より

 

"この教えを信じればあの世で救われる" 日本人にとって死が身近な時代に「次の世界では素晴らしいことが待っていて、神様は慈愛深い」と説く宣教師の姿は救いを求める人々にとってカリスマ的な存在となっていった。

こうして日本人の間にキリスト教が普及していく中でイエズス会のヴァリニャーノは、この布教の成果をローマ教皇に宣伝するため使節を派遣することにした。こうして選ばれたのが、後の天正遣欧使節と呼ばれることになる武士の子ども、伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアンの4人だった。

 
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4人の旅立ち

天正10年(1582)長崎からローマへ向けて出航した天正遣欧使節は、この時まだ13歳前後の熱心なキリシタンだった。2年半の船旅を終え、4人はローマ教皇と謁見すると教皇は涙を流して喜んだと言われている。

当時ヨーロッパではカトリックプロテスタントが熾烈な争いを繰り広げていた中、カトリックは多くの信者を失っていた。そんな中、東の果ての王がカトリックに改宗してくれたことに教皇は感激した。そのことから4人はスペイン国王やフィレンツェメディチ家などヨーロッパの行く先々で大歓迎を受け、イタリアやドイツでも4人を讃える記事が出版された。こうして天正遣欧使節はヨーロッパ中で一大ブームを巻き起こし、キリスト教界のヒーローになった。

 
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帰国後待っていたのは…

天正18年(1590)天正遣欧使節が日本に帰国した時、4人は20代の青年に成長していた。しかし帰国後もキリスト教のために尽くそうと熱い信仰に燃えていた4人を待っていたのは、出発前の日本とは全く異なった日本だった。

実は使節が帰国する3年前の天正15年(1587)に豊臣秀吉バテレン追放令を出したことからキリシタンに対する風当たりが強くなっていたのだ。慶長元年(1597)には秀吉の命でキリシタン26人が処刑される事件まで起きた。

しかしこの事件がローマまで届くと犠牲者は英雄のように讃えられ、"彼らに続こう"という意欲が信者の中で沸き上がってしまう。実はこのような行為はキリスト教では殉教とみなされ最高の証だと思われていた。またその影響を受け、日本でも26人が殉教の道を選んだことから、この事実はかえって宣教師たちの日本での布教熱を高まらせてしまうことになった。

そんな状況下で4人は司祭になるための勉強に励んでいた。司祭とはキリシタンにとって重要な"ゆるしの秘跡"という儀式を執り行うことのできる権利を持つ人のことで、罪を犯したキリシタンが死後、天国へ行くために行う必要な存在なのだ。

こうして慶長13年(1608)、マンショ・マルチノ・ジュリアンは40歳前後で司祭となり、日本キリシタン界のリーダーとして責任を担うことになった。

一方、千々石ミゲルはこれに加わらず、キリスト教を脱会してしまう。病気が原因とも言われているが「大村家秘録」によると次のようなことを語っている。

 

キリスト教は来世での救済を説いているが実際は国を奪う謀をしている

 

 

ミゲル脱会の裏と3人の運命

ミゲルは長崎県南島原市で少年時代を過ごした。戦国時代この地の住民の大半はキリシタンだった。多数派になったキリシタンはやがて神社や寺院を襲うようになり、仏教徒たちは攻撃から逃れる生活を余儀なくされた。

 

キリシタンの少年たちが仏像を引きずり出し、唾を吐きかけた。これらの仏像は直ちに割られ、薪になり、我々の炊事に役立った。
「プレイス日本史」より

 

長年の間ミゲルは異文化・異民族を軽視するヨーロッパの宣教師の姿を見続けてきたのではないかと推測されている。しかしキリシタンの数は、その後も増加していった。

慶長17(1612)に伊東マンショが死去。これにより司祭の役目はマルチノとジュリアンにのしかかっていった。さらに慶長19年(1614)には徳川家康が日本にいる宣教師に国外退去を命じたことにより、ふたりの人生の歯車は狂いだす。

 

キリシタンとは邪法である。今すぐ禁じなければ国家の患いになる。
「伴天連追放文」より

 

イエズス会は対応策として宣教師の8割を海外退去させ、残り2割を日本に潜伏させ布教を続けさせることにした中、ジュリアンは日本に留まり、マルチノは海外退去令を命じられた。この時マルチノは大きな矛盾を抱えながら日本を去ることになる。なぜ日本で人気を誇る司祭である自分が国を離れるのか。

「わずかに残った司祭では膨大な数の信者にゆるしの秘跡を行うことができないのでは?」

実はイエズス会の海外退去令は幕府の命に従っているように見せかけるポーズであり、布教活動に熱心だった優秀なマルチノは日本国内に残しておくと、そのカリスマ性から独立されてしまうのではないかと恐れられ、逆に海外へ送り込まれたと言われる説もある。事実マルチノは日本を発った後、マカオでキリスト教の本を日本語に翻訳するなどして日本の宣教師たちに役立てた。結局マルチノは日本帰国を夢見ながら布教に励んだものの、その望みは叶うことなく異国で生涯を終えた。

一方日本に留まったジュリアンは追っ手から逃れるため農民姿に変装し、布教活動を続けながら潜伏していた。

 

元和8年(1622)長崎ではキリシタン55人が処刑される元和の大殉教が起き、宣教師は火あぶりにされ、信者は首を切られた。そんな苦しい弾圧に屈しキリスト教から脱会する者も増えていった。


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もはや幕府は鎖国へと踏み出しつつあり、キリスト教を容認する理由などなく、弾圧は強まるばかりでとまらない。

そしてついに、そんな幕府に反旗を翻そうと、ある事件が起きる。有名なあの"島原の乱"だ。10代の天草四郎のもとに3万を超えるキリシタンが集結すると、ジュリアンが布教を行った地域の信者も参加し、信仰のため壮絶な戦いを繰り広げた。しかし、地獄画図のような戦の末、この地域の住民ほぼ全員が命を落とした。

 

 

ジュリアンは潜伏してから18年後に捕らえられ、5日間の拷問に耐えた後、殉教していた。寛永10年(1633)60代半ばのことだった。

 

最期の言葉は

「私はローマを見た中浦ジュリアン司祭だ!」

だった。

 

 

感想

私は子どもの頃、何となくクリスチャンが憧れでした。と言うのは"お墓のデザインが日本のよりカッコイイ"とか"火葬はコワイから土葬がイイ"とかそんな理由。葬儀に明るいイメージがあったのかもしれません。

しかし大人になって"宗教"という意味で考えるようになってからは少し近よりがたいモノになってしまいました。

今も世界中で問題を抱えているのが、この宗教や信仰による違いです。宗教一つで戦争にもなります。我々日本人には想像もつかないような争いがそこにあります。

もし私が天正の世に生まれていたらミゲルと同じ意見だったかもしれません。初めは異国のモノに対して興味本位で手を出してしまうでしょう。しかし"自分と違う思想の人間や文化を破壊する"という教えに神を見い出す自信はありません。

ミゲルは日本人がなかなか司祭になれないことにも不満を抱いていたようですし、ヨーロッパに対し疑惑の目を持っていたとも考えられます。もし日本が鎖国せず、日本全土がクリスチャンになっていたら今の日本はあり得ませんよね。

人々の救いになっていた宗教が弾圧され、幼い子どもまでが殺されてしまったのは悲しい出来事ですが、宗教で洗脳され国を乗っ取られてしまうのも避けたい現実。

基本的に宗教とは自由であり、人を幸せにするものであって欲しいですね。

しかしこの天正遣欧使節のおかげで、ヨーロッパでは当時人喰いだと思われていたような未知の存在だった日本人が、礼儀正しく勤勉な"同じ人間"だと知られるようになりました。遠い歴史の中で日本のために役立ってくれたことには間違いありません。4人がヨーロッパで素晴らしい印象を残してくれたことを、今の日本人も引き継いでいかなければなりませんね。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

画像 Wikipedia

 

NHKBSプレミアム

英雄たちの選択

毎週木曜 午後8:00

※再放送 木曜 午前8:00

 

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