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愛と戦いに生きた女帝 マリア・テレジア【ザ・プロファイラー】

NHKBSプレミアムにて2017.1.19に放送された「ザ・プロファイラー 愛と戦いに生きた女帝マリア・テレジア」でのテレジアの一生についての部分のまとめと感想です。

 

 

名門ハプスブルク家が存続の危機にさらされた時、国を救うために立ち上がったのは後に「国母」と言われ多くの人々から愛された女帝マリア・テレジアでした。今回はそんな激動の時代をくぐり抜けた彼女の生涯を追っていきます。

 

 

 

ハプスブルク帝国

中世の13世紀~20世紀の初頭に至るまでヨーロッパで権勢を誇った名門ハプスブルク家マリア・テレジアが生まれた頃にはオーストリアやハンガリーなど中央ヨーロッパを支配するハプスブルク帝国を築いていました。その帝国を引き継いだ時テレジアはまだ、ただ美しく、淑やかな女性にしか過ぎませんでした。

 

 

 

 女帝 マリア・テレジアの誕生

今からちょうど300年前の1717年、テレジアはハプスブルク家の長女として生まれました。王女としての教養を身に付けるためピアノやダンス、外国語に宗教などを幼い頃から学びました。6才の時、9才年上のロートリンゲンの王子フランツ・シュテファンと出会い恋心を抱いたテレジアは、1736年の19才の時フランツと結婚しました。

 

この結婚に大きな期待を寄せたのは父カール6世。ハプスブルク帝国の君主は代々男性でしたが、カール6世には息子がいませんでした。それで後継ぎになる男の孫を欲しがっていたのです。

 

 二人の間には、すぐに子どもが生まれましたが、生まれてきたのは娘。その後、2人目、3人目も女の子が続くとカール6世は失望し、ゆりかごを覗き込むことさえしなくなりました。

 

 そして4人目を身ごもっていた時、テレジアにとって悲劇が訪れます。父カール6世の死去です。突然の父の死により長女だったテレジアは1740年23才でハプスブルク帝国の君主となりました。

 

 

 

だが敵は突然襲いかかってくる!!

周辺国は女性君主を認めようとはしませんでした。女王としての教養しか学んでいなかったテレジアには国を統治する経験も知識もありません。それにも関わらず財政や軍隊に向き合わなければならないのです。

 

その矢先、プロイセンハプスブルク帝国内でも最も資源が豊かなシュレージェン地方に侵攻してきました。プロイセン軍を率いていたのはフリードリヒ2世。強大な軍事力であっという間にシュレージェンは占領されてしまいました。

 

 

 

「シュレージェンを失うくらいならペチコートを脱いだ方がマシだわ!」

追い込まれたテレジアは父の時代からの側近と会議を開きます。しかし皆、勝ち目がないと考え口を開こうとはしませんでした。しかしテレジアは「シュレージェンを失うくらいならペチコートを脱いだ方がマシだわ!」と言い放ち戦うことを決意します。

 

 テレジアは父から譲り受けた領地を割譲することなど有り得ないと考えていました。ペチコートとは当時、身分の高い女性がスカートの下に履いていたもので、それを脱ぐというのは並々ならぬ決意の表れであったと推測できます。

 

 


事態はさらに深刻に…

フランス・バイエルンザクセンといった周辺諸国までもが次々と攻めこんできます。そんな中、テレジアは乗馬の練習を始めます。その後、テレジアは馬に跨がりハンガリーに向かっていきました。

 

長年の対立の末に支配下に置かれていたハンガリーでは、未だにハプスブルク家に対する反発が強く残っていました。それでもこの事態を切り抜けるためにはハンガリーの軍事力に頼るしかないと考えていたテレジアは馬を愛するハンガリー人の信頼を得ようと乗馬を特訓したのです。そんなテレジアの姿を見てハンガリー人は「女王万歳」と歓迎してくれました。

 

 


オーストリア継承戦争

ハンガリーを味方につけたテレジアは周辺国と8年に渡り戦い続けました。これが後のオーストリア継承戦争(1740~1748)と呼ばれたものです。結局プロイセンに奪われたシュレージェンを取り返すには至らなかったものの、ハプスブルク帝国の後継者として、テレジアは周辺国からも認められるようになりました。

 

 シェーンブルン宮殿に拠点を置いたテレジアは国の改革を進めていきます。8年の戦争を経て、ハプスブルク帝国がいかに時代遅れな国なのか痛感したからです。

 

 


徹底した近代化改革

まずテレジアは人材の登用に目をつけました。身分に関わらず優秀な人材を自ら抜擢していったのです。さらに次の3つの改革も同時に進めていきます。

 

 

①軍隊
以前は戦のある時に農民や傭兵を各地から寄せ集め軍をつくっていましたが、今後は正式な軍隊をつくるため士官学校を設立しました。また、合わせて軍の健康と栄養管理のための病院や食堂も施設内に取り入れたのです。もちろん軍隊には貴族も農民も関係ありません。全員が平等に扱われることにより、競争心が生まれ士気が高まりました。

 

 

②税制改革
軍を維持するためには莫大な資金が必要です。そこでテレジアは税制改革を行いました。多民族国家であるハプスブルク帝国では、各地方が勝手に税率を決め、宮廷に納める額も自分たちで決めていたため財政は不安定でした。そこでテレジアは税率を一本化し、中央から役人を派遣し税の徴収にあたらせました。これにより財政は安定し、地域ごとの不平等さも消えたのです。

 

 

③生産性の向上
当時、農業者は寝ている時間以外は働いていると言われていたものの、実際は仕事中に遊びや酒を楽しんでいました。そこで、テレジアは休憩時間を設けることにしました。そうすることで労働時間と休憩時間に区切りがつき、集中力も高まったそうです。

 

 

こんなに仕事熱心だったテレジアですが、家族との時間もとても大切にしていました。息子5人に娘11人。自身の幼少期と同じように子どもたちにも多くの習い事をさせていたようです。

 

 しかしそんな溺愛していた子どもたちにも結婚に関しては厳しい条件を設けていました。それは恋愛結婚の禁止。政略結婚で周辺国との関係強化をする必要があったからです。実際に11女のマリー・アントワネットはフランスに、6女のマリア・アマーリエはパルマに10女のマリア・カロリーネはナポリに嫁いでいます。子どもは資本であり、政治に投入することが伝統であった時代、母として、君主として、これが子どもを守る姿なんだと娘たちに向けて見本になっていたのでしょう。

 

 


フリードリヒ2世「オーストリアには稀にみる君主がいると思ったら こいつが女だった」

テレジアには忘れることのできない屈辱がありました。それはフリードリヒ2世にシュレージェンを奪われたことです。再びフリードリヒ2世と戦うことを決意したテレジア。次こそ勝たなければならないテレジアは秘策としてフリードリヒ2世を取り囲む包囲網を結成することを思い付きます。そしてロシアの女帝エリザベータとフランスのポンパドゥール夫人を味方につけ、同盟を結ぶことに成功します。

 

 


ペチコート同盟の快進撃

ペチコート同盟と呼ばれたこの同盟を結ぶにあたってもテレジアの政治手腕が見られます。当時フランスとハプスブルク家は300年以上の敵対関係にあり、フランスとプロイセンは強調関係にありました。この困難を切り抜けるためにテレジアはカウニッツという側近をフランスに送り、秘密裏に動いていました。カウニッツはフランスで頻繁に舞踏会を催し、諜報活動に励みます。そしてそこで得た情報をテレジアに逐一報告すること6年、ついにポンパドゥール夫人を味方につけることに成功したのです。

 

 実はフリードリヒ2世に反感を持っていた夫人。ルイ15世を説得してくれ同盟成立への助けになってくれました。さらにロシアにはエリザベータに同盟を呼びかける手紙を送ると、同じくフリードリヒ2世に反感を持っていたエリザベータはあっさり承諾してくれました。こうして1756年、テレジア39才の時、七年戦争が始まったのです。

 

 


七年戦争の行方

ハプスブルク帝国の軍を率いたダウン将軍は、プロイセン軍を次々と撃破していきました。フリードリヒ2世は惨敗、テレジアが勝利を確信したその矢先、また信じられない不運が襲いかかります。エリザベータの死去です。エリザベータの突然の死去に代わって、即位したピョートル3世は何とフリードリヒ2世の崇拝者だったのです!テレジアとの同盟を破棄したピョートル3世はプロイセンにつきました。それによりプロイセンは命拾いしてしまいます。

 

 

一方ハプスブルク帝国も戦争継続の余力はありませんでした。長引く戦争で国力は衰退し、食糧不足が深刻になりました。1763年、テレジアは46才の時、シュレージェン奪還を断念し七年戦争は終結を迎えました。

 

 

 

それでもなぜ国母として愛されたのか

終戦から2年後の1765年、テレジアが48才の時、夫フランツが死去。以後テレジアはひとりで子どもたちと向き合うことになりました。まずは長男ヨーゼフ2世に、ある程度の国政を任せることにしました。するとヨーゼフ2世は戦争でボロボロになった国家財政を立て直すために歳出削減に取り組みます。ヨーゼフ2世はさっそく宮廷の馬1200頭を400頭に減らします。それを見たテレジアは「馬の飼育係はどうなったの?まさか路頭に迷わせるつもりなの?」と批判しました。しかしヨーゼフ2世は聞く耳を持たず、それどころか儀式や祝祭までも廃止していったのです。

 

 テレジアとヨーゼフ2世の対立を徹底的にしたのはポーランド分割です。ヨーゼフ2世もまた、フリードリヒ2世を崇拝していまた。フリードリヒ2世の呼びかけでプロイセン・ロシアと共にポーランドを略奪。国力を回復するには領土が必要と信じていたフリードリヒ2世はバイエルン国王が死去すると侵攻を開始しました。ヨーロッパの平和を願うテレジアの声を聞かずに…。

 

フリードリヒ2世は好戦的なヨーゼフ2世はいずれプロイセンにも悪影響を及ぼすと考え、ハプスブルク帝国を攻撃してきました。戦いは膠着し、兵士は疲弊していきました。誰もが戦争に何の価値も見いだせなくなったそんな中、テレジアはフリードリヒ2世に手紙を送りました。宿敵に対し和平を申し出たのです。そしてフリードリヒ2世はそれを受け入れました。国民のためを思えばそれがお互いにとって1番の選択だったからでしょう。

 

 

テレジアを悩ませたのは娘たちも同じです。中でもフランスに嫁がせたマリー・アントワネット。テレジアは浪費を重ねる噂しか聞かない娘に苦言を呈していました。

 

 ひとりの母としては様々なジレンマを抱えていましたが、国母としては国民のために様々な改革をしていきました。天然痘が流行れば現地まで赴き予防接種の必要性を伝えたり、義務教育を法律化し小学校を設立することで教育水準の向上をはかったり、とても熱心でした。

 

 Wikipediaより
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こうして国母として愛されていったマリア・テレジアは1780年11月29日、君主となって40年の63才で死去しました。

 

 

彼女の死から3か月後「テレジア最期の日」という子どもたちに囲まれ息をひきとるテレジアの様子が描かれた版画が作られました。

 

版画にしたのは、多くの国民に絵が行き渡るようにという配慮からだそうです。

 

亡き夫をずっと想い、夫の死後、生涯喪服を脱ぐことはなかったテレジア。こうして、ようやく念願の夫のもとへ旅立ちました。

 

 

 

感想

女性が国政をするというのは今も昔も大変なことですよね。私は男性と女性では考え方が全くの別物であると思っています。どちらが善で、どちらが悪かではなく見ている視点に違いがあると思います。

 

また、テレジアは中世の宮廷生活での孤独さというものも感じていたでしょう。テレジアが女帝に即位した日の一言がとても印象的です。

 

「私は最期の日に至るまで誰よりも慈悲深い女王であり、必ず正義を守る国母でありたい。」

 

何だか孤独と戦う覚悟をしたように感じるのです。しかしテレジアにとって国民は我が子のような存在です。そんな我が子を守ることで胸の奥に小さな連帯感を持っていたのではないでしょうか。

 

個人的に中世にタイムスリップできたらぜひ、インタビューしてみたい方ですね!豊かに見えて豊かじゃない暮らしの中で生きていく強さは凄いなぁと思いますし、私もこんな強い人間になりたいです。フリードリヒ2世との戦いに人生のほとんどを費やしたわけですから、そのガッツ見習いたいです。やはり行動力と粘りは大切ですね!私もショボい目標ですが、このブログを長く続けられたらと思います!

 

 


長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。